002空を飛ぶ鳥を保護することは有りか無しか


001「野鳥が幸せか飼い鳥か幸せか」からのつづき)

投稿者コメント:
<再掲(抜粋)>
空を飛ぶ鳥を生存確率数パーセントというグレートハンティングから隔離して保護することは、 ―― 自然保護の観点を抜きにして ―― 有りか無しか

管理人コメント:
「種」としての野鳥を保護するのか個々の「個体」を保護するのかによって答が変わって来るのではないでしょうか?
「個体」として保護するという事はその個体が自然界に居た事を意味しますから当の野鳥にとっては「要らん世話」という事になろうかと思います。またツバメなどの雛が巣から落ちている場合、寄生虫などの影響で親鳥が放棄する事が有るそうなので巣に戻すのはNGです。車にはねられたりしたなど人為的な事故の場合は治療の為に一時保護する事に異存は有りませんが、他の野鳥に襲われて怪我をしたなどという場合、それは自然の摂理ですから人間が干渉すべきではないと考えます。その野鳥を保護した結果、飢餓から脱するはずだった捕食者を追い詰める事にもなりかねません。更に言えば怪我ではなく人間に慣れている野鳥を保護するという事なら話が全く違って来ます。その場合どういう経緯で人間に慣れるに至ったかが問題です。例えばツバメは自らの意志(?)で場合によっては農家の土間などに営巣しますが、その農家に野鳥保護の意識が無かったとしても結果としてツバメを保護していると言えます。ツバメは害虫を駆除してくれる事から伝統的に農家が大切にしており人間と野鳥が積極的に共生している稀なケースと見なす事が出来ます。これとは別に、最初からほぼ確信犯的に人為的な餌付けなどにより半ば強引に飼い慣らされている疑いが濃厚なケースは関わった人間の都合が勝っており、そこが鳥獣保護法の無い国だと仮定しても論外と言わざるを得ません。
「種」として、すなわち前回001で投稿者が指摘された様な「遺伝子の器」という観点で考えると個々の個体は全体の中で一定の役割を果たしていると考えるべきであって、例えば前回も登場したゴカイは釣り餌として利用される事によって「種」として繁殖のチャンスを拡大しているとも考えられます。つまり個々の個体は大半が犠牲になりますが「種」としては人間を利用して生き残っていると言えます。その点では釣られる方の魚も人間に食べられる事によって水産資源として管理されるという地位を手に入れているとも考えられます。それを言い出すと家畜の類も右に同じです。人間に食べられる前提の家畜においてさえ「種」として見ると保護され繁栄を手に入れているのです。「いわんやペットにおいてをや」です。ただし家畜などの場合、人間の文明が存続する限り半永久的に人間と共存(?)して行くものと思われますがペットとなると少し事情が異なります。ペットとして完全に定着している犬や猫はともかく爬虫類など飼育の難しい生物がペットショップで売られている現状は、飼いきれなくなって捨てられたペットが野生化し外来種として日本の在来種を駆逐しつつあるという問題の原因ともなっています。話が横道に逸れましたが個々の一般家庭において既に手放されつつあるのですから近い将来「種」ごと放棄されてしまう可能性が高いと見るべきです。一たび「保護」されるということはその瞬間から弱体化が始まっていると考えねばなりません。一度飼い慣らした「種」を自然に戻すのは困難です。コウノトリやトキの野生復帰にどれほど手間が掛かっているかを見れば明らかです。人間の都合で散々飼い慣らす為に餌を与えられ温室育ちで弱体化させられた揚句グレートハンティングのサバイバル社会に投げ出された「種」は存続して行けるのでしょうか?ペットブームが去ったらポイ捨てというのでは余りに身勝手です。ペットとして人間と共存させるのであれば末代まで未来永劫自然界から隔離し付き合って行く覚悟が必要であり、現状を見ればとてもじゃないけどそこまで出来る訳が無いのは明白です。話はまた横道に逸れますが犬猫でさえ野良犬野良猫になって生態系を脅かしているではありませんか。自然界の方でもそんな外来種は迷惑であり籠の中に隔離しておいてくれと思っているでしょう。
なお野生を捨てて人間に飼われるという事は品種改良により人為的に「種」としての形態が変化させられるという別の問題もはらんでいます。

ところで自然界は全ての生物種が生態系の中でそれぞれの役割を果たす事によって全体としてバランスを保ち共生しているとも見る事が出来ます。そういう視点で見ると一つの「種」だけを切り離して単体で見る事は出来なくなる様な気もします。


投稿者コメント:
「野鳥が幸せか飼い鳥か幸せか」 に関しては、当の鳥に幸せを感じる知能も不幸を感じる知能もないんだから、命題が変わるのは当然だわな。
 では、反駁行きます~♪
 <中略>
途中に非常にキツイ口調で書かれている箇所がありますが、正直な話、文明のぬるま湯に肩まで浸かった生活を甘受しておきながら、それはないだろう、と思いましたので、敢えて強い口調で書 かせて頂きました。悪しからず。
 
>「種」 としての野鳥を保護するのか個々の 「個体」 を保護するのかによって 答が変わって来るのではないでしょうか? 「個体」 として保護するという事はその個体が自然界に居た事を意味しますから 当の野鳥にとっては 「要らん世話」 という事になろうかと思います。

 それじゃ永久ループなんだってば。
 当の野鳥が 「要らん世話」 だと考えるかどうかは、当の野鳥に訊くしかない。
 訊きたくても鳥と人間はコミュニケーション不可。
 仮に鳥の思考を読み取って音声や映像として出力する技術が有ってもコミュニケーションは不可だろう。それに、脳の大きさから勝手に判断すると、( カラスみたいに子犬並みの知能を有する種も存在 しますが ) 基本的にネズミ程度の知能だと推し測られるでしょう。

 常識的に考えれば、
 ① 要らん世話かどうか理解する能力を鳥は持たない
 ② 食う気のない人間が安全だという知識を持たない野鳥にとって人間は全て捕食者に見える
 というだけのこと。
 「要らん世話」 だなんて高度な認識は常識的に考えて鳥類には無理。
 また

>ツバメなどの雛が巣から落ちている場合、寄生虫などの影響で 親鳥が放棄する事が有るそうなので巣に戻すのはNGです。 車にはねられたりしたなど人為的な事故の場合は 治療の為に一時保護する事に異存は有りませんが、 他の野鳥に襲われて怪我をしたなどという場合、それは自然の摂理ですから人間が干渉すべきではないと考えます。 その野鳥を保護した結果、飢餓から脱するはずだった捕食者を追い詰める事にもなりかねません。


 同じですよ。
 人間に起因するなら人間が関わって良いとか悪いとか。
 それを人間が判断するのは、“驕り”ではないでしょうか。

>更に言えば怪我ではなく人間に慣れている野鳥を保護するという事なら話が全く違って来ます。 その場合どういう経緯で 人間に慣れるに至ったかが問題です。 例えばツバメは自らの意志(?)で場合によっては農家の土間などに営巣しますが、 その農家に野鳥保護の意識が無かったとしても結果としてツバメを保護していると言えます。 ツバメは害虫を駆除してくれる事から伝統的に農家が大切にしており 人間と野鳥が積極的に共生している稀なケースと見なす事が出来ます。

 農家が大切にしたというより、ツバメにはヘビやスズメなどの天敵が多くいて、これら天敵達がこぞって人間が嫌いなので、ツバメが“人間の威”を借りているに過ぎません。
 ツバメにとって人間は利用価値アリですが、人間にとってツバメはどうでしょう。
 農家にとって害虫を食ってくれるツバメは確かに益鳥ですが、数が少な過ぎて農薬の代わりに成るとは思えません。害虫も食ってくれるが、折角作った作物も食ってしまうスズメの方が農家にとっての益鳥の度合いは大きいと言えるでしょう。
<中略>
 人の通る軒先に巣を造るツバメは、糞を巣の外へ撒き散らすので、ネズミ以上に不衛生な有害動物です。 それでも、スズメと違って人を怖がらず、子育て中の可愛い雛を披露 ( といっても、人間が勝手に覗き見るだけですが ) してくれるツバメは、害虫を摂ることではなく、人間に癒しを与えるという点で共生していると言えるでしょう。
 しかしそれは、似たようなサイズで似たような外見のスズメが人を恐れて近付かなくて、人間に癒しを与えてくれないから、代わりにツバメが愛好されているに過ぎません。
 もし、スズメがツバメ以上に人を恐れず、人間の近くまで寄ってくる野鳥であったなら、身悶えする位 に可愛い声で鳴き、穀類という手で摘まめる餌を食するスズメの“癒し”は、ツバメの比ではありませ ん。
 今の所、人間を異常に怖がるスズメは、“癒し”という点での貢献度はツバメよりも低い評価になりますが、共生しているという点では、ツバメ以上でしょう。
 なにせ、ツバメが絶滅しても農家は困りませんが、スズメが絶滅すれば高性能な農薬をふんだんに使えない途上国の農村は飢饉に陥ります。
 
<中略>
 農家と最も共生している鳥は、スズメがファイナルアンサーなのでは?

>これとは別に、最初からほぼ確信犯的に人為的な餌付けなどにより 半ば強引に飼い慣らされている疑いが濃厚なケースは関わった人間の都合が勝っており、 そこが鳥獣保護法の無い国だと仮定しても論外と言わざるを得ません。

 恐らく貴殿の主張は、前回で例として挙げたスズメについて語っているのだと思うので、その線で反駁させて頂く。
 スズメを飼ってはいけない理由は、
<中略>人を怖がるスズメの習性を利用して、ツバメが身を守っているから、人に慣れさせるべきではないという事も理由の一つでしょう。
 完全な室内飼いなら問題はありませんが、
<中略>人に懐いたスズメを外へ出せば、近くに居る他のスズメが
 「 なんだ。人間って怖くないんだ 」
 と学習して、人から逃げなくなったらツバメにとって悲劇が起こります。
 貴殿には既知の情報だと思いますが、読んでくれている第三者がいた場合に備えて、書いておきますと、スズメはツバメと姿格好が似ていますので、スズメがツバメの巣を奪うことが往々にして起こります。 ツバメが人間の近くに巣を作るのは、人間を好きだからではなくて、人間の威を借りてスズメ
(※)を追い払っているのです。
 ですから、野生のスズメ
(※)が人間を恐れなくなってしまうと、わざわざ人が行き来する場所に作ったツバメの巣が、人を恐れなくなったスズメに強奪されてしまいます。
 だから、スズメを人に慣らしてはいけない、と言えるわけです。
 しかし、それは、逆に捉えれば、何羽かのスズメを根気良く餌付けて、人に飼われるストレスを除去した上で、動物病院で使う薬剤を用いて、病原菌や寄生虫・ダニを駆除し、狭い籠ではなく飛び回れる広い部屋で多頭飼いにして、子を作り世代交代できる環境を整えてやるのであれば、飼ってもイイだろう、と考えます。
 もちろん、これは人の都合で勝手にやることであり、自然の摂理に反しています。
 でも、だからどうしたというの?
 紙を作ったり、建築資材を作る為に鳥たちの棲家である森林を伐採しておいて、
 都市や工場地帯を作る為に、野生動物の生存場所である野原を切り拓いておいて
 古くは発電するために、今は人間様の居住区を水害から守る為に、淡水魚の棲家である河川を コンクリートで固めておいて
 クルマの排気ガスや石炭ストーブからの排ガス、工場の煙突から排出される排気ガスなどで 鳥が飛翔する空を汚染しておいて
 工場からの廃棄物や事故を起こした原発から排出される放射性物質で、海水魚の棲家である 海を汚染しておいて
今更、たかだか [ 本来なら野に在るべき野鳥を慣らして飼う ] 如きが
   論外
 だと?
 本来なら野に在るべき野鳥を慣らして飼うなんて次元じゃない大罪を我々は犯した後じゃないか。
 そりゃあ、もちろん、
 「 大罪を犯したからと言って罪を重ねて良いワケではない 」
 という理屈は分かりますよ。
 だけれども。
 それは、大罪を犯して得た文明という名のぬるま湯に肩まで浸かった生活を享受し続けている状態で言うべきではないのではありませんか?
 最低でも大罪を犯して得た文明を捨て、人工物に関わらない生活を送れるようになってから言うべきだと思う。
この辺は、原発反対のサヨク連中にも通じるんだよね。
<中略>
 原発で作った電気でアンプを駆動させておきながら、「原発反対!」 なんてさ。
 冗談としか思えないでしょ。
 多くの種を絶滅に追いやった文明の恩恵を受けながら、
   人が野生種をペットにするのは許せない
 なんて言われましてもねぇ。
 悪いけど、それは説得力なっしんぐッス。

>「種」 として、すなわち前回001で投稿者が指摘された様な 「遺伝子の器」 という観点で考えると 個々の個体は全体の中で一定の役割を果たしていると考えるべきであって、 例えば前回も登場したゴカイは釣り餌として利用される事によって 「種」 として 繁殖のチャンスを拡大しているとも考えられます。

 鳥と扱いが違い過ぎるやないけw
 飛ぶ能力を持つ鳥から飛翔できる環境を奪う事が大罪だと言い張るそのクチで、泥質/砂質の海底 に穴を掘り潜る能力を持つゴカイから、泥質/砂質の海底に自由に穴を掘り自由に潜る環境を奪って おいて、何が繁殖のチャンスだよ。
 その論で言うなら、たとえ飛翔の自由を奪おうとも鳥を雄雌両性の多頭飼いするならば、「種」 として 繁殖のチャンスを拡大しているとも考えられるやん。
 ダブルスタンダードはあかんで。 ダブルスタンダードは。

>つまり個々の個体は大半が犠牲になりますが 「種」 としては人間を利用して生き残っていると言えます。

 そんなん自然界の弱肉強食よりも凄惨やんけw
 神が造りし崇高なるグレートハンティングを我々人間が人智をフル稼働させて逃れ続けているのは 「捕食者に生きながら喰われる」 という死に対する恐怖があるからだ。
 だが、弱肉強食の野生に於いても、食われる側の立場にいる者が食われる事なく老衰で死ぬ可能性 はゼロではない。 餓死でも病死でもなく、天寿を全うして死ぬ個体も存在する。
 だが、釣り餌にソレはない。
 釣り人に購入されて、釣り餌として体にブッ太い針を突き刺され、瀕死の状態で魚に生きたまま喰われるか、或いは、売れ残って飢え死にする二択の死に方しかない。
 だいいち、今現在のゴカイは、自然界に多数存在していて、かつ、同時期に人に飼育されて個体数を 増やす ( 最終的に買われるか、あるいは売れ残って餓死するから総数は増えない ) ゴカイも存在している。
 自然界のゴカイが絶滅した後に、人に飼われるゴカイが生き残ったなら、それは
   人間を利用して生き残っている
 という表現で良いと思いますが、自然界のゴカイが数を減らしつつあって、近い将来に絶滅の可能性 があるというのでもないのに、人に飼われるゴカイが存在する事を 『人間を利用して生き残っている』 という表現はオカシイでしょう。
 繰り返しになりますが、人の手を介して誕生から生殖まで生きた『種』を
   人間を利用して生き残っている
 と言ってしまうのであれば、雄雌両性を多頭飼いして生殖するペット ( ペット化された野生種を含む ) もまた、
   人間を利用して生き残っている
 と表現されて然るべきです。
 ダブルスタンダードはあきまへん。

>その点では釣られる方の魚も人間に食べられる事によって水産資源として管理されるという 地位を手に入れているとも考えられます。

 いやいやいや。
 クジラ偏愛白人団体が海洋の食物連鎖からクジラだけを外している事に因って、水質資源の管理は、実質上破綻状態にあると言わざるを得ません。
 更に言えば、クールジャパン活動が実を結び、寿司がワールドフーズに成ってしまった所為で、世界中で消費される魚介類が厖大化して、海中の食物連鎖はバランスが崩壊しつつあります。
 総合的水資源管理を謳うのであれば、魚の餌を大量に消費して生態系を破壊するクジラを間引きした上で、魚介類を食わないように ―― 食う場合は、総合的水資源管理に基づいて、あくまで計画的に 獲る ―― しかありません。
 しかし、そんなことが可能でしょうか。
 反捕鯨団体のバックには、「可愛いクジラちゃんを食べるなんて許さない」 という
<中略>理由で 大金を払ってくれるスポンサーが存在します。 つまり、単純に経済行為としてやっているワケですか ら、「捕鯨の妨害を止めろ」 なんて言ったって止めるワケがありません。
 反捕鯨国と言えばオーストラリアですが、思想的にクジラを神格化している面もありますが、ホエール ウォッチングという観光収入が欲しくてやっており、やはり経済行為です。
 日本人を含めて、美味しい魚の味を覚えた人々に食うなというのも無理な話です。
 幾ら規制した所で、規制を掻い潜って漁をする悪質な密漁者は必ず現れます。
 日本海でさえ、日本の業者が漁獲量を制限していても、不逞韓国人が密漁して、日本の商社へ売り捌いているのが現状です。
 どうしても格好ばかりではない、ちゃんとした総合的水資源管理をやるというのであれば、捕鯨国だけで軍事同盟を築き軍事力を以て圧力を掛けるしかありません。
 
<中略>

それを言い出すと家畜の類も右に同じです。
 人間に食べられる前提の家畜においてさえ 「種」 として見ると保護され繁栄を手に入れているのです。


 ゴカイで書いた話と重複するんだけど、食肉畜産動物が待っている“死”は、グレートハンティングで 喰い殺される野生の死に方よりも遥かに無慈悲で残酷です。
<中略>
 特に豚は、大地を駆け回っていた猪が家畜化され、狭い檻の中で碌な運動もさせて貰えずに成獣になるまでの期間を過ごし、壮絶な最期を遂げて食卓に上がります。
 それの何処が“繁栄”なのか?
 それが“繁栄”だというなら、飛ぶ能力を持つ鳥を狭いゲージに押し込んで、世代交代を繰り返させて、飛べない鳥類として飼い、最後に解体して喰うのもまた“繁栄”と呼んで良いことになるぞ。
 貴方が鳥を好きな事は知っている。 自然界に於ける鳥の生態に興味があって、知識を貪っていることも知っている。
 だけど、ダブルスタンダードは良くない。
 ダブルスタンダードは止めようよ。

>「いわんやペットにおいてをや」 です。 ただし家畜などの場合、人間の文明が存続する限り 半永久的に人間と共存(?)して行くものと思われますがペットとなると少し事情が異なります。 ペットとして完全に定着している犬や猫はともかく爬虫類など飼育の難しい生物が ペットショップで売られている現状は、飼いきれなくなって捨てられたペットが野生化し 外来種として日本の在来種を駆逐しつつあるという問題の原因ともなっています。 話が横道に逸れましたが個々の一般家庭において既に手放されつつあるのですから 近い将来 「種」 ごと放棄されてしまう可能性が高いと見るべきです。

 は?
   近い将来 「種」 ごと放棄されてしまう可能性が高い
 なんで?
 飼いきれなくなって捨てられたペットは野生化して行き延びているんじゃん。
   飼いきれなくなって捨てられたペットが野生化し 外来種として日本の在来種を駆逐しつつある ってのは、人の手が介しているけれど、本質的には弱肉強食であり、神の摂理だよ。
人の手を介してやってきた外来種によって在来種が絶滅するのが許せないというのであれば、
もう人類を滅ぼして下さいな。
<中略>そもそも人間は他者と関わらずに生きて行くことが出来ない生き物です。
 ですから、
   人には、生きものを所有したい、命あるものを自分の自由にしたい、という欲望がある
 というよりも、伴侶を得る事の代償行為として命ある生き物を飼おうとします。
<中略>
 ですから、独身がペットを飼うと、それによって精神が満たされてしまい、婚期を逃す傾向があるそう です。
<中略>
 また、伴侶を得た場合でも、子供が生まれれば情操教育の為にペットを飼う夫婦は少なくありません。
<中略>
 これ等を『マズローの欲求5段階説』に当て嵌めて考えれば、
<中略>ペットを飼うという行為は、人間の欲求の第三階層 [ 社会的欲求 ( 集団に属したり、仲間が欲しくなったり ) ] と 第四階層 [ 尊厳欲求 ( 承認欲求:他者から認められたい、尊敬されたい ) ] を同時に満 たす行為です。
 更に言えば、敢えて飼育が難しい生き物をペットとして飼おうとする行為は、『マズローの欲求5段階 説』に於ける最終第五階層 [ 自己実現欲求 ( 自分の能力を引き出し創造的活動がしたいなど ) ] で あると捉えることが出来ると思われます。
 このような欲求は、人が人であるが故に発する自然な欲求でしょう。
 どの程度まで遡れば、人とペットの関係を断ち切れるのか分かりませんが、古来から狩りのお供として活躍していた犬でさえも、人がホモサピエンスになった瞬間に既にペットとして飼われていたわけでは ないでしょう。
 そう考えれば、既にペット化が完了している種を飼う行為も、まだペット化していない種を飼おうとする 行為も神罰が下されなければならないような罪ではないと考えるべきはありませんか?
 逆に。
 それが罪だと言うなら、どうぞ。
 「人類が、野に在って然るべき種を飼って、自然環境を破壊しています。 神罰を!」
 と神に訴えてノア計画を発動させてくださいな。
 既に此処まで自然破壊をして、何も起こらないのですから、門前払いされると思いますけど。

 人が介する事に因って生じた 「種」 の絶滅は許し難い大罪だが、

  んじゃ文明なんか使うな!
 コウノトリにしろトキにしろ、食用にしたり、羽毛を活用したり、肉片を漁の撒き餌にしたり、あるいは 経済成長の為の開発によって生活環境が奪われたりして、個体数を減らした結果、絶滅危惧種に成ったに過ぎない。
 コウノトリを飼う奴が居たから絶滅危惧種になったのでもなければ、トキを飼う奴が居たから絶滅危惧種になったのでもない。
 人類が文明を得る為に、経済活動を重ねた結果、彼らが絶滅危惧種になるまで個体数を減らしたのだ。
 森林を破壊して造った住宅に住み、自然の水の流れを破壊して造った水を飲み、自然の摂理を曲げて製造された食品を食べて、電気を使い、クルマや電車に乗っておきながら
   人が介する事に因って生じた 「種」 の絶滅は許し難い大罪
 だなんて言うな!
 そういうことは、最低限、人工の物に一切関わらない生活をしてから言え。
 人が介しない状態で

>一たび 「保護」 されるということはその瞬間から弱体化が始まっていると考えねばなりません。 一度飼い慣らした 「種」 を自然に戻すのは困難です。コウノトリやトキの野生復帰にどれほど手間が掛かっているかを見れば明らかです。

 人が意図した結果じゃなくても、人の経済活動の結果として、個体数を絶滅の危機まで減らさせたのがコウノトリやトキだ。
 なぜ、人の手を介して僅かな個体を生殖させ、遺伝子の連続を続けようとするのか。
 自然の掟に従って、自然に絶滅させるべきはないのか?
 人間が生活環境を奪ったからといって、個体数の維持が不可能な迄に数を減らした種を、人間が人間の勝手な判断で、人の手を介して増やす事も自然の摂理に反する行為ではないのか?
 野生復帰も何も、そもそも変な贖罪意識で自然の摂理を捻じ曲げるべきではないのではありません か?

>人間の都合で散々飼い慣らす為に餌を与えられ温室育ちで弱体化させられた揚句グレートハンティングのサバイバル社会に投げ出された 「種」 は存続して行けるのでしょうか? ペットブームが去ったらポイ捨てというのでは余りに身勝手です。

  なぜ捨てることが前提なのか?
 もちろん、成長して可愛く無くなったら捨てるという無責任な飼い主
<中略> がいることは事実だ。
 だが、大多数の飼い主はそうではない。
 ペットロスという、精神的ダメージを抱える覚悟前提で最後まで付き合う。
 少数の例を使って恰も全体像がそうであるかのように言うのは止めよう。

>ペットとして人間と共存させるのであれば末代まで未来永劫自然界から隔離し付き合って行く覚悟が必要であり、現状を見ればとてもじゃないけどそこまで出来る訳が無いのは明白です。

 室内飼いのペットの殆どはそうだぞ。
雄雌両性多頭飼いで子が多く生まれた際に、貰い手を捜す事になるが、それにしたってストレス発散の為に嬲り殺しにしそうな奴に譲るなんてことはありません。
 自分と同じ様に愛しんで飼ってくれる人に譲ります。
 その論でいけば、むしろ問題になるのは畜産農家が飼っている豚さん牛さん鶏さんです。
 予想外の原因で経営困難になった畜産農家が、育てている家畜を手放そうと思っても、周りの畜産 農家に受け入れるキャパシティがなければ手放すことは出来ません。
 ギリ出荷可能なサイズに育っている肉牛や豚は、事情を話して食肉センターに引き取って貰う事が出来るかも知れませんが、それ以外 ( 乳牛や卵を産む為の鶏 ) は全部潰すしかありません。
 飼い続ける事が不可能になった時の仮定の話をするなら、家庭のペットではなく、畜産農家の家畜で しょうに。
 なんとしてでも 『ペットを飼うのは悪』 としたい貴殿の思惑が透けて見える様に思えます。
 ・・・ 穿ち過ぎですかね?

>話はまた横道に逸れますが犬猫でさえ野良犬野良猫になって生態系を脅かしているではありませんか。 自然界の方でもそんな外来種は迷惑であり籠の中に隔離しておいてくれと思っているでしょう。

 だから、外来種が生存競争に加わって来るのをも含んでのグレートハンティングだろうに。
 気候の変動に伴って野生動物も生活場所を変える。
 特定の種が棲む場所は未来永劫、その種が絶滅するまで永遠にその場に留まるワケではない。
 草食獣が移動しようが肉食獣が移動しようが、移動によって今まで出会った事の無い捕食者と被捕食者が出遭えば、それは外来種との遭遇と何も変わらない。
 人が介そうが介しまいが、グレートハンティングの組み合わせ変更は常に起こり得る。
 人の介在だけを悪玉に仕立て上げることに何か意味でもあるのか?

>なお野生を捨てて人間に飼われるという事は品種改良により人為的に 「種」 としての形態が 変化させられるという別の問題もはらんでいます。

 まさか貴殿は、豚肉を食すそのクチで、言うて居るのではあるまいな。
上述した通り、豚は人が猪を家畜化して創った種だ。
 人為的に 「種」 としての形態が変化させられて何が悪いというのか。
 極言すれば、自然にとって人はその存在自体が悪である。
 火を使い、武器を使い、文明を築き上げて、あろうことかグレートハンティングという神の摂理から人類は逃れてしまった。
 この時点で、人が人の望むように自然を改変する事に対して、同じ人である者が異議を唱えることは 出来なくなった。
 なぜなら、グレートハンティングという神の摂理から逃れた人である時点で、その存在自体が悪だか らだ。
 自分達が安寧に暮らすというタダそれだけの為に、
 紙を作ったり、建築資材を作る為に鳥たちの棲家である森林を伐採しておいて、
 都市や工場地帯を作る為に、野生動物の生存場所である野原を切り拓いておいて
 古くは発電するために、今は人間様の居住区を水害から守る為に、淡水魚の棲家である河川を
コンクリートで固めておいて
 クルマの排気ガスや石炭ストーブからの排ガス、工場の煙突から排出される排気ガスなどで
鳥が飛翔する空を汚染しておいて
 工場からの廃棄物や事故を起こした原発から排出される放射性物質で、海水魚の棲家である
海を汚染しておいて
ここまで自然を改変しておいて、人為的に 「種」 としての形態が変化させられるのが許せないって。
悪の分際で正義の味方ヅラするの止めてくんない?

>ところで自然界は全ての生物種が生態系の中でそれぞれの役割を果たす事によって全体としてバランスを保ち共生しているとも見る事が出来ます。そういう視点で見ると一つの 「種」 だけを切り離して単体で見る事は出来なくなる様な気もします。

 いや、「待った!」 じゃないんだが、
<中略>その主旨には賛同する。
 しかし、認めようが認めまいが、地球の覇権を握ったのは人類である。
 好奇心からキメラを創ったり、人工ウイルスを製造する事は ( あくまで人類の滅亡を阻止する目的で ) 禁忌とされるべきですが、人がより豊かでより安寧な生活を甘受するためであれば、 ( もちろん、 十分な安全性が確認された上で ) 遺伝子操作だろうが野生生物の人工養殖化だろうが好きにするべきです。
 そういう意味で、
   全体としてバランスを保ち ( 人間にとって都合の良い様に、人間以外の種と ) 共生している
 社会を目指すべきでしょう。
 人にとって人の尊厳の前には、他の動物の尊厳なんか知ったこっちゃありません。
 それが人にとって都合の良い、ひいては、生き易い生活環境の確立に繋がるのですから。


投稿者の表現や引用を管理人にて一部省略しています。また前後の脈絡から誤植と思われる部分は管理人にて修正しています(※)。投稿者の原文を読みたい方はだちんこギャラリーを参照してください。


管理人コメント:
一文一文反駁するのは煩雑なので僕の考えを以下の様に全体的にまとめさせてもらいました。そのため必ずしも順番通りには並んでいませんが、概ね回答にはなっていると思います。

>「要らん世話」 だなんて高度な認識は常識的に考えて鳥類には無理。

「鳥類には無理」と何故断言出来るのでしょうか?因みに僕には「無理じゃない」とは断言出来ません。人の脳の血流を解析しその人が見ている画像をモニターに再現する研究をしている所が有って既にある程度成果が上がっている様ですが、仮にそういう研究が進んでも鳥が何を考えているのかは永遠の謎でしょう。なお参考までに、動物の知能を測る尺度として「脳化指数」というものが提唱されています([脳化指数] = [定数] × [脳の重量] ÷ [体重]2/3)。

>人の手を介して誕生から生殖まで生きた『種』(ゴカイ)を人間を利用して生き残っている と言ってしまうのであれば、雄雌両性を多頭飼いして生殖するペット(ペット化された野生種を含む )もまた、人間を利用して生き残っていると表現されて然るべきです。
>食肉畜産動物が待っている“死”は、グレートハンティングで 喰い殺される野生の死に方よりも遥かに無慈悲で残酷です。


ゴカイや家畜の例えはゴカイや家畜の遺伝子を擬人化してその生き残り戦略を比喩的に表現したものであってゴカイや家畜は人間が養殖して人間の犠牲になっても良いとか悪いとかという趣旨で書いたのではありません。それは「誤解」です。遺伝子としての「種」の存続の話をしているのに各「個体」の悲惨な最期を理由に反駁されては話が混乱します。だから「個々の個体は大半が犠牲になりますが『種』としては人間を利用して生き残っていると言えます」と言っているではありませんか。ゴカイは自然界でも生き残っているとは言え少なくとも人間の影響で安定的に個体数を確保しています。その点は水産資源として養殖放流されているアユなどにおいて顕著です。日本のアユは背ビレの形で天然モノか養殖モノかが見分けられ既に天然モノは絶滅したと見られています(養殖モノが圧倒的多数になり駆逐されてしまったという側面も有るでしょうが)。もちろん僕は豚肉も魚も、それどころか鶏肉も食べます。鶏だけを特別扱いしている訳ではありません。「鶏は鳥類じゃないか。野鳥ファンのくせに食べるのか」という怒号が飛んできそうですが。人間は悲しいかな雑食性の動物であり偏らずバランス良く何でも食べるのが最も良いという体の構造になっていますからやむを得ず動物性タンパク質も摂取して命を頂戴しているのです(カッコよく書きましたが本音を言えば好き嫌いが無く単にそれが美味しいからです。美味しいという事は体が欲しているとも考えられます。薬が苦いのは毒物だから味覚でチェックし体が拒否しているんだと思います)。本題に戻りますと、ペットの遺伝子も人間を利用して生き残っているのだとしても、健康に生きる為にやむを得ず犠牲にしているゴカイや家畜と、生きる為に不可欠という訳でもないのに単に癒しの為に飼い殺しをしている鳥とを同列に論じるのは適当ではなく、立て分けて考えるのはダブルスタンダードでも何でもありません(念の為に言っておくと僕はペットを目の仇にしている訳ではありません。このコーナーらしく過激な表現で小理屈をこねまわしているだけです)。

>飼いきれなくなって捨てられたペットは野生化して行き延びている

ペットの野生化による生態系の破壊を心配する一方で「種」としての存続を心配するのは一見すると矛盾している様ですが、野生化した生物が外来種として駆除されたりペットとしての販売や飼育が禁止されたりするという事は遺伝子的には人間を利用する事に失敗したという見方が出来ます。
話を戻すと飼い鳥の場合、籠脱けした鳥は大多数が自然界では通用せずすぐに死んでしまっているものと思われます。その中にごく希に野生化する者が存在し、日本の場合は飼い鳥と言えば通常外国産の鳥ですから、たまたま野外で繁殖に成功すると外来種となり、その中でも在来種を圧迫するまでになってしまった種がご存じの通り特定外来生物となって駆除の対象となります。ペットが特定外来生物になった顕著な例がアライグマです。アライグマはテレビ番組の影響からか一時期ペットとして大量に販売され凶暴化した成獣が捨てられるという社会現象を引き起こしました。アライグマはスズメなどより遥かに知能が高い(哺乳類の中でも高い方?)ですが総体的に人間には遂になつきませんでした(多数の中には少数の例外も有るかも知れませんが)。子供の頃から餌を与えられていたにもかかわらず大人になると飼い主を攻撃する様になったと聞きます。繁殖可能な成獣になると本能的に親離れ子離れするという習性が強いのでしょう。知能が高いからと言って人間(育ての親)になつくとは限らないという事になります。結果として野生化した繁殖個体群の駆除という最悪の結果を招いています。鳥の世界ではソウシチョウが一時期ペットとして輸入されたものの安価過ぎた上に売れ筋じゃなくなって採算がとれなくなり野外に捨てる業者がいた事などの為に野生化し特定外来生物になったという指摘が有ります(他にもガビチョウ、カオジロガビチョウ、カオグロガビチョウなどが特定外来生物=フォトギャラリー第150回参照)。ごく一部の悪徳業者だと反駁されるかも知れませんが、少数の不心得者を以って全体を批判しているのではなく、人間社会の現実としてこういった事例が有る以上、今後もそういう例が出て来るだろうと予測するのは当然ではありませんか。人間が飼い慣れない動物を飼うのは飼われる動物にとっても悲劇です。彼らこそペットブームとやらの被害者です。単に可愛いからとか珍しいからなどという動機で習性がよく分からないにもかかわらず消費者を煽ってわざわざ飼育の難しい動物をペット化するのは身勝手というものです。犬や猫の様に家族の一員となって生涯を全うするレベルになって初めて人間もペットも幸せと言えるのではないでしょうか。

>グレートハンティングの組み合わせ変更は常に起こり得る。

地球上の生物種のほとんどは様々な障壁によって一定範囲内に隔離されていてその障壁を越える事が出来ません。それによってエリア(区)ごとに生態系バランスと「種」が保たれています(もちろんそれだけで保たれている訳ではありませんが)。そしてそれを破壊して来たのは人間です。本来そこに居るはずの無い外来種により在来種が絶滅させられたらそれは人間が殺したのと同じではないですか。このうえ更に人間のつまらない欲望を満たす為に生態系を破壊するのを良しとする事は出来ないでしょう。
我々人間は余りにも抜きん出て獰猛でズル賢く自分達でコントロール出来ないほどの絶対的な権力を入手してしまいました(アフリカのサバンナではライオンなどの猛獣でさえ成人男性を怖れると聞きます。案外そういう所でも生身の人間は生き残るものなのかも知れません。だとすると文明によって人間が覇権を手に入れたとは言い切れないという事になります。自身でそれを確かめにアフリカのサバンナへ行こうとは思いませんが)。人間は自然の恩恵を受けている一方であまりにも自然を改変してしまいましたから、これ以上の破壊工作は最小限に抑えなくてはならないという危機意識が根底に有るのだと思います(それもまた人間の勝手な都合なのかも知れませんが)。
野生動物が車にはねられたりしたなど人為的な事故の場合は治療の為に一時保護するという行為は誤解を恐れず言うと、ある意味「文明は自然界には存在しない」事にしようとする行為なのだと思います(「文明」は「自然」と対極に位置していますから)。存在しないのだから「文明が存在しないとしたら、こうなっていたであろう」という状態、つまり可能な限り車と衝突しなかった状態に戻そうとしているという事です。「人間に起因するなら人間が関わって良い」という発想になるのもそういう理由からだと思います。

ところでフォトギャラリー第203回で記述した事もありますが野鳥たちは手付かずの自然の中にだけ存在する訳ではありません。日本の里山は連綿と人間の手で植林され耕作され手入れされて現在に至っています。好むと好まざるとにかかわらずそれが現在の秩序です。その人工的な環境に順応して様々な野生動物が生息しているのです。もはや全く人間の手が入っていない大自然など日本のどこにも見当たらないと言っても過言ではありません。その日本で生き延びた野鳥が地球的規模で拡散しているという事は、それだけで地球上に手付かずの自然などほとんど残っていないという事になります。極論すればこの地球そのものが巨大な鳥籠なのかも知れません。つまり完全な「野鳥」といったものは既に存在しないと言えなくもありません。ツバメに限らず全ての野鳥がこの人造環境に適応していると見る事が出来ます。原始時代、大阪平野などが一面の湿地帯だったころ絶滅に瀕していた種が現在は繁栄しているという例も有るかも知れません。人間が耕作しなければそのおこぼれもまた存在しなかった筈ですから。人間の文明が有るからこその現在の生態系であるならば(もちろんそのせいで絶滅した種も存在するし文明が有っても無くても生き残っていたであろう種も存在するでしょうが)、少なくとも「大罪を犯して得た文明という名のぬるま湯に肩まで浸かった生活を享受し続けている状態」だからと言って「本来なら野に在るべき野鳥を慣らして飼う」事に対して何も言えないという理屈にはなりません。一方で「大罪を犯して得た文明という名のぬるま湯に肩まで浸かった生活を享受し続けている状態」の人が「本来なら野に在るべき野鳥を慣らして飼う」のが許されると言うのであればなおの事です。もちろん地球そのものが鳥籠なのだとしたら野鳥とされる鳥たちもペットみたいなものだろうという事にもなるのですが。ただ、地球は世界最大の鳥籠なので鳥たちも自分たちが鳥籠の中に居るとは夢にも気付かないでしょう(我々人間も鳥籠の中で一緒に暮らしている事に気付いていません)。

>人が介する事に因って生じた「種」の絶滅は許し難い大罪

これはどこからの引用でしょうか?僕のコメントがそういう趣旨に受け止められたのでしょうか?他人の発言の責任は取れません。

>人の手を介して増やす事も自然の摂理に反する行為ではないのか?

僕は絶滅危惧種の人工繁殖に諸手を上げて賛成した覚えは有りません。それは厳密な意味でもはや「野鳥」とは呼べない事になるかも知れないと思うからです。もっとも、前述の通り厳密な意味で「野鳥」と呼べる鳥は何?という疑問は残りますが。トキは一度絶滅したところから人工的に海外個体群を移入し人工繁殖し放鳥したという極端な例ですからレッドリストでも日本で唯一「野生絶滅」というカテゴリーに分類されています。今後どんなに野生復帰しても定義を変えない限り永久にここから出してもらえないでしょう。同様の理由で出水市におけるツルへの餌付けも無人島におけるアホウドリの移住計画も、それをしたら純然たる「野鳥」とは言えなくなってしまうのではないかという疑問が生じるのですが「種」が絶滅してしまったら元も子も有りませんから背に腹は代えられないという事になるのでしょう。出水市におけるツルへの餌付けに関しては江戸時代からの伝統なので仮に今やめても同じ事だという側面も有ります(フォトギャラリー第98回参照)。
生物種は絶滅により減る事は有っても突然変異がもっと頻繁に起こったりしない限り増える事は期待出来ません。絶滅危惧種の人工繁殖や餌付けに賛同する人達には時々刻々と生物の多様性が失われつつある事に対する焦りも有るのだと思います。
自然淘汰により絶滅しゆく者を人工的に増やそうとするのは自然の摂理に反すると言えるでしょう。しかし人間が絶滅に追いやっている者を増やそうとするのは、絶滅に追いやっている時点から既に自然の摂理に反していると言うべきです。所詮前述の例の通り「文明が存在しないとしたら、こうなっていたであろう」という状態にしようとする行為ですから、自然の摂理に反している状態から強引に自然の摂理に反していない状態に持って行こうとしているという事なのではないでしょうか。もちろんそれで完全に自然の摂理に反していない状態になる訳ではありません。所詮人間のやる事です。しかし可能な限り理想に近づけようとする努力を全否定してしまったら歯止め無く理想から遠ざかって行く事になります。
しかしながら「文明が存在しないとしたら、こうなっていたであろう」という状態を理想の状態と言っているのではありません。それを言ってしまったら文明など破壊せよという事になってしまいます。何としても人間の文明が存在する事が前提の話でなければなりません。「自然」というものが「文明」と対極の位置に有る物だから、文明が存在しつつ「文明が存在しないとしたら、こうなっていたであろう」という状態を求めている時点でどうしてもこういう矛盾を抱えてしまうのはやむを得ません(この「文明が存在しつつ」の部分は後述するので頭の片隅に置いておいて下さい)。
外来種が駆除されたり、人間のつまらない動機による野鳥への餌付けが批判されたりするのも「文明が存在しないとしたら、こうなっていたであろう」という状態を求めているからに他なりません。フォトギャラリーにも書きましたが最近バードウォッチングをしていると、手っ取り早く撮影する為にスマホなどでさえずりを流したり餌付けしたりなどして野鳥をおびき寄せる行為がごく一部の人に見受けられ(フォトギャラリー第212回参照)個人的に快く思っていないため特にそういった事を意識したコメントになりました。僕も人間ですから主観が混ざってしまうのはやむを得ません。野鳥ファンなら誰しも野鳥のいい写真が撮りたいという気持ちは分かりますがそんな自分勝手な動機で必要以上に野鳥を翻弄する権利が人間には有るのでしょうか。
投稿者さんはヒヨドリか何かを介抱した体験をお持ちとの事ですがその事を責めるつもりは毛頭有りません。僕も窓にストライクしたジョウビタキを介抱した事が有ります(フォトギャラリー第13回参照)。野鳥に対する愛情が有りまごころに裏打ちされた行動であれば無下に責める事は出来ませんし状況から察するに上記のロジックで言うと「窓ガラスが存在しないとしたら、こうなっていたであろう」という状態へ持って行こうとする作業という事になろうかと思います。しかし撮影目的の餌付けなどは全く異質のものです。餌付けの結果野鳥にどういう悪影響が有るか深く考えもせずただ楽をしていい写真が撮りたいという動機でワームなどを仕込んでいます(ワームも犠牲になっている訳ですが)。大多数の良心的な野鳥ファンは暗黙の了解として野鳥に対して極力影響を与えない様に心掛けているものです。上記の「文明が存在しないとしたら・・・」という発想に当てはめて考えると、文明が存在しない訳ですから「自分が素っ裸もしくは動物の毛皮をまとって棍棒など持って立っていると仮定してその状態に近い状態でカメラを構える」という事になろうかと思います。素っ裸もしくは毛皮をまとって棍棒などを持って立っている状態と服を着てカメラを構えて立っている状態とでは外見上ほとんど違いが無く野鳥に与える影響も限りなく大差無いものになると考えられます。もちろん現実には素っ裸で外を出歩く訳には行きません(お巡りさんのご厄介になってしまいます)から、これは飽くまで仮定の話ですが。文明が存在しない状態から遠ければ遠いほど望ましくない状態と考えると多少の餌付けはまだしも(餌付けがいいとは言いません)スマホなどでさえずりを流す行為は文明が存在しない状態からは程遠く決して好ましい事ではないと考えます(撮れた写真も決していいものではなく人工的なものになるでしょう)。原始時代に鳥が飼われていたという証拠は今のところ無い筈ですから文明が存在しないとしたら鳥籠も無いという事になります。何を言わんとしているかはもうお分かりですね。どうしても鳥を飼うとしたら鶏がおそらく人間に飼われた歴史が鳥類の中で最も長いので文明が存在しない状態に最も近いのではないでしょうか。飼育方法も確立されていますし早朝に鳴いて近所迷惑になりさえしなければ飼いやすい鳥だと思います。

>ここまで自然を改変しておいて、人為的に「種」としての形態が変化させられるのが許せないって。 悪の分際で正義の味方ヅラするの止めてくんない?

僕が「野生を捨てて人間に飼われるという事は品種改良により人為的に 『種』としての形態が変化させられるという別の問題もはらんでいます」と書いたのは前述した通り「遺伝子」の立場で考えるとそういう問題を抱えているという脈絡だったはずです。あの文章の主語は「遺伝子」です。「遺伝子」を擬人化して「遺伝子」が自分の姿を変えられては困るだろうという趣旨でそう表現したものです。「人為的に『種』としての形態が変化させられるのが許せない」などと自分の立場で主観を述べた覚えはありません。

>農家と最も共生している鳥は、スズメがファイナルアンサーなのでは?

農家にとっては大問題かも知れませんが僕にとっては平たく言えば「別にどっちでもいい」です。特にどちらを応援したいという気持ちも有りません。因みに僕がよく行く農耕地ではスズメなどよりホオジロの方が圧倒的に多く見られます。地域によるのではないでしょうか。

>火を使い、武器を使い、文明を築き上げて、あろうことかグレートハンティングという神の摂理から人類は逃れてしまった。
 この時点で、人が人の望むように自然を改変する事に対して、同じ人である者が異議を唱えることは出来なくなった。
 なぜなら、グレートハンティングという神の摂理から逃れた人である時点で、その存在自体が悪だからだ。


「文明」をどう定義するかという事はさておき、人間は最初に文明を手に入れてから生き残った訳ではなく弱肉強食の自然界で生き延びたあとに文明を手に入れた筈です。すなわちグレートハンティングという神の摂理から人類が逃れてしまったのは必ずしも文明を築き上げた後とは限らないという事になります。人間ほど無益な殺生を繰り返す獰猛な生物は地球上には見当たりません。案外アウストラロピテクスの頃から食物連鎖の頂点に君臨して動物たちから恐れられていたのかも知れません(子供が他の猛獣の犠牲になる危険性が高いのはライオンなどでも同様です)。頂点に近い猛獣ほど自然界における存在確率が低く人間が彼らと遭遇する機会は想像している以上に少なかったかも知れません。特に日本列島においては人間と対等以上の猛獣は極めて稀であったと思われます。ツキノワグマ程度なら1対1でもたいてい人間から逃げるとされます。原始人はオオカミ(犬)と共生して主に夜間における肉食獣の危険を回避し、頭数を増やして集団で行動する事により他者を圧倒し、弱肉強食の世界を勝ち抜いていたと考えます。人間が文明の利器で決定的に地上を支配する様になったのはもっと後の話だったのではないでしょうか。命中精度の高いライフルの登場などつい昨日今日の事です。すなわち、必ずしも「グレートハンティングという神の摂理から逃れた人である時点で、その存在自体が悪」とは言えず「この時点で、人が人の望むように自然を改変する事に対して、同じ人である者が異議を唱えることは出来なくなった」とも言えないという事になります。
また仮にアウストラロピテクスが地球外知的生命から文明を授けられるなどしてグレートハンティングという神の摂理から逃れてしまったのだとしても、「人が人の望むように自然を改変する事に対して、同じ人である者が異議を唱えることは出来なくなった」とは言えないでしょう。なぜなら「望むように自然を改変する」人も「存在自体が悪」なのですから、同じ「存在自体が悪」の人が「存在自体が悪」の人に異議を唱えることが出来ないとは話が一方的過ぎます。平たく言えば「お前もやっとるやないか」に対して「お前に言われたくないわ」と言い合いしているという構図です。こんな子供の喧嘩みたいに次元の低い話をしていても良いのでしょうか。手に負えないほどの文明を手にしてしまったからこそ、その「文明が存在しないとしたら、こうなっていたであろう」という状態に近づけようとするのはむしろ「存在自体が悪」の我々に課せられた課題とも考えられます。

>全体としてバランスを保ち(人間にとって都合の良い様に、人間以外の種と)共生している社会を目指すべきでしょう。

投稿者さんが「『文明が存在しないとしたら、こうなっていたであろう』なんて自分には関係無い。自分は文明を謳歌する立場なのだから自由に自然を改変させてもらってもとやかく言われる筋合いは無い」というスタンスなのだとしても、我々人間は文明の恩恵を受けている以前に自然の恩恵を受けている筈です。文明が発祥したのも自然の恩恵が有ったからこそです。「文明のぬるま湯に肩まで浸かった生活を甘受しておきながら」とか「そういうことは、最低限、人工の物に一切関わらない生活をしてから言え」とか仰るのであれば、太陽光線という自然の恩恵、温暖な気候という自然の恩恵、日光を燦々と浴びて育った農作物(もちろん機械力という文明の利器は事実上不可欠ではありますが)、同じく日光を燦々と浴びて育った飼料を食べて育った家畜の肉、海の幸山の幸、そういった自然の恩恵に肩まで浸かった生活を甘受しておきながら「(人間にとって都合の良い様に、人間以外の種と)共生している社会を目指すべきでしょう」などと言うべきではないと言われても仕方が有りません。ちょっとタチの悪い人に捕まると「自然の恩恵に一切関わらない生活をしてから言え」と言われるでしょう。太陽光線を完全に遮断し完全な断熱材で覆われた家の中で原発を稼働し(三重水素を排出して大気で希釈したら太陽光線による対流を利用した事になるので反則)オール電化でゲーム三昧、人工照明で野菜と飼料と家畜を育てて自給自足の生活をして排泄物も肥料としてリサイクルし酸素は野菜から供給し水道は井戸水など使用せず尿を浄化するなどして再利用し(井戸水は太陽光線により蒸発した水蒸気が雨となって山に降り地下に浸透したものだから反則)・・・どう考えてもコスト的に無理でしょう。我々は文明の恩恵も自然の恩恵もいいとこ取りをしなければ生きて行けないのです。この巨大な鳥籠の中で「文明が存在しつつ」「文明が存在しないとしたら、こうなっていたであろう」という状態を模索し、自然の良さを可能な限り残しながら文明を維持して行くスタイルが最も現実的で理に適っていると考えます。

この他にも折角いろいろコメントして頂きましたが「テーマから遠い」「同意見」「枝葉末節」などの理由で回答は割愛させて頂きます。
余談ですが大阪の某ペット可マンションの管理規約には「飼えない動物」の例として大まじめに「ぞう」と書かれています。そりゃ飼えないでしょうなぁ・・・


投稿者コメント:
人の事は言えないが、相変わらず長いお (´・ω・`)
 では、性懲りもせずに論破開始。
 なお、オイラは頭が悪くて何に反駁して、何をスルーすれば良いのか判りません。 なので、総当たり 行きます!


>鳥が何を考えているのかは永遠の謎でしょう。

既に示した通り、人に最も近い猿でさえも人とのコミュニケーションは無理だ。
<中略>
 人と同等の知能を有し得る程に体重比で重い脳質量を持つゴリラでさえも、人とのコミュニケーション は不可能なのだ。
 もちろん、会話できる程の知能を有していないからといって、「要らん世話」 だなんて認識すらも出来ないとは限らない。
 実際、猫は構い過ぎると怒る。

 <中略>
「おまえ鬱陶しいな」 ではないだろうか。
 「要らん世話」 だという認識は 「おまえ鬱陶しいな」 とは次元が違う。
 「おまえ鬱陶しいな」 は、自分と他者の関係だけで決定付けられる判断であって、自分が置かれてい る状況と関係がない。
 一方、「要らん世話」 というのは自分が置かれている状況と自分の能力を秤に掛けて、「お前の助け なんかなくても大丈夫」 という判断を下すということだ。
 言い方を変えると、相手が自分にしようとしている行為が、「要らん世話」 と捉えられるということは、 自分が現在の状況を鑑みて、相手が自分に対してやろうとしていることが必要か否かを判断した結果 ということである。
 これが鳥類に可能だろうか。
 考えて欲しい。 鳥類は、人間だったら恐怖の余りに発狂してしまうようなグレートハンティング社会の 弩真ん中で、自分よりも弱者である存在を狩って喰い、同種の異性を見つけてセクロスして、仔を生 み、育てているのだ。
 現在の状況を鑑みることが出来る程度の知能があれば、恐怖の余りに発狂してしまうだろうと思われる凄惨な殺し合い ―― それも、弱者は決して強者に敵わないという弱者にとっては、絶望的な殺し合い ―― の中で鳥類は ( 鳥類に限らないが ) 自分よりも弱者である存在を狩って喰い、同種の異性 を見つけてセクロスして、仔を生み、育てている。
 そりゃあ、自分が現在の状況を鑑みる知能が有って、殺される恐怖も抱いた上で、それでも縮こまって居たら飢えて死ぬだけだから、勇気を振り絞って弱肉強食の世界へ身を投じているという可能性だってゼロではない。
 しかし、常識的に考えたら、自分が狩られる側に居るという認識が出来ない程度の知能だから、自分が成鳥まで生き延びて、子孫を遺せる可能性の低さになんか思考が及ぶことなく、ただただ、目の前 にある、或いは飛んで見つけた餌を喰い、繁殖期に見つけた異性と性欲の赴くままにセクロスしている だけの可能性が高いだろう。
 結論。
 「要らん世話」 だという認識は高度な知能がなければ持つことが出来ない ( と思われる )。
 グレートハンティング社会の弩真ん中で平然と生きている連中の知能が高いとは思えない。
 鳥も同じ。
 だから、知能の低い鳥類が人の好意に対して 「要らん世話」 だという認識を持つのは無理
 ( と考えるのが合理的 )。


>「 個々の個体は大半が犠牲になりますが『種』としては人間を利用して生き残っていると言えます 」と言っているではありませんか。

 だったら、もしかしたら飛翔本能というものがあって、広い大空を自由に飛ぶことが制限されると酷いストレスに晒されるかも知れない野鳥を狭いゲージに押し込んで、世代交代を繰り返させて、飛べない鳥類として飼い、最後に解体して喰うのもまた
   『種』としては人間を利用して生き残っている
 と言えるのではありませんか。
 貴殿の主張は、
 「 野鳥を狭いゲージに押し込めて飼い殺しにするのは、
  当人(当鳥)にとって不幸であるから止めるべきだ」
 なのでしょう。
 しかも、人間だったら恐怖の余りに発狂してしまうグレートハンティングの弩真ん中で、自分よりも弱者である存在を狩って喰い、同種の異性を見つけてセクロスして、仔を生み、育てているという―― そ んなの正気じゃ出来ないだろ ―― ってツッコミを入れたくなるような行動をしている鳥類に対して、「要らん世話」 だなんて高度な認識さえも不可能ではないと言い張るのでしょう。
 だったら、ゴカイも同じです。
 泥質/砂質の海底に穴を掘り潜る能力を持つゴカイから、泥質/砂質の海底に自由に穴を掘り自由に 潜る環境を奪うことと、広い大空を自由に飛び回る能力を持つ野鳥から広い大空を自由に飛び回る環 境を奪う事は等しく同じではありませんか。
 ゴカイから泥質/砂質の海底に自由に穴を掘り自由に潜る環境を奪うことは
   『種』としては人間を利用して生き残っている
 であり、野鳥から広い大空を自由に飛び回る環境を奪う事は
   野鳥が不幸に感じるかも知れないことは止めろ
 というのは、幾ら否定されようともダブルスタンダードです。
 ゴカイから泥質/砂質の海底に自由に穴を掘り自由に潜る環境を奪って。個体数を増やす機会を与えることが【間違った行為ではない】と許されるのであれば、野鳥から広い大空を自由に飛び回る環境を奪っても、それが雌雄両性の多頭飼いで個体数を増やす機会を与えているならば、それは【間違った行為ではない】と許されるべきです。

 <中略>
 何らかの大きな変革が有って、地球上の幾多の種が滅びるとして、その変革の後まで生き残れる確率は、人間のような高等生物よりも、原生動物に近い簡単な生命体の方が高いと思われます。
 であると仮定するならば、人間の手を介して ( 人間に関わっている部分の ) 個体数を確保していたとしても、何らかの大きな変革が起こった際には、人間は死滅してしまうか、或いは、死滅しないまでも、ゴカイなんか飼っていられる状況ではなくなってしまいますので、いずれにせよ、人が関わって生きているゴカイはその時点で全滅が確定します。
 そう考えるならば、人間の影響で安定的に個体数を確保していることに意味なんかありません。
 逆に、そういうグレートハンティングの輪から外されて、人に生殺与奪の権を握られて生きる種にも、 種の存続としての価値があるというなら、狭いゲージに鳥を押し込めて、異性間で性交させ、自然とは別の環境で種を存続させることもまた、意味のある行為であり、そういう飼育方法を非難される謂れは何も無いことになります。
 コウノトリやトキがゲージではなく、野に放たれる理由は、飛べないコウノトリも飛べないトキも人間の勝手な価値基準で、「飛べなくなったコウノトリはコウノトリとして保護する価値がない」 とか「飛べなくなったトキはトキとして保護する価値がない」 と見捨てられてしまうからではありませんか? 飛べなくなっても、飛べる個体と等しく価値があると見做してくれるなら、野良犬や野良猫,猛禽類等の外敵から襲われて個体数を減らしかねない自然下での育成なんか放棄してしまえば良いのです。
 でもコウノトリもトキもあくまで飛ぶ鳥として、人間の監視下にありながら、野生に生かされています。
 それは結局のトコロ、コウノトリにしろトキにしろ、生物学の種の定義に 「飛ぶ」 と在るから、飛ばないコウノトリも飛ばないトキも 「定義外」 ・・・ つまりは 「規格外の出来損ない」 として扱われているのではありませんか。
 たとえゴカイ (多毛類)の一種 [ 埋在性ベントス ] を、「泥質/砂質の海底に穴を掘り潜る能力を持つ種」 だと生物学的に定義した際に、飼育工場で蠢く [ 埋在性ベントス ] が亜種として扱われることはないでしょう。
 ゴカイであれ、野鳥であれ、生まれ持って得ている能力 ( [ 埋在性ベントス ] に於いては、「泥質/砂 質の海底に穴を掘り潜る能力 ] であり、( 一部を除いて ) 野鳥に於いては [ 飛ぶ能力 ] ) を失うことがあろうとも、個体数が確保できていれば、それは絶滅危惧種ではなくなることを意味するはずです。
 鳥の絶滅危惧種だけが、飛べる個体のみをカウントして、「絶滅危惧ガー」 と喧伝するのは、「 飛べない鳥は固有種ではない、タダの『飛べない鳥』という括りに過ぎない」 と言わんがばかりの人間の奢りではありませんか。

<中略>

>その点は水産資源として養殖放流されているアユなどにおいて顕著です。

 え? それ、善しとするの?
   養殖モノが圧倒的多数になり ( 天然モノが ) 駆逐されてしまった
 現状を善しとするの?
 それは、美味しい鮎を簡単に獲れるようにするために、人が自然に手を加えることを善しとする発想 だよ。

 <中略>
 だから。
 当の家畜にとってそんな人間の都合なんか知ったこっちゃないんだってば。
   ゴカイや家畜は人間に美味しい食卓を与える為の犠牲だから無問題
   でも、野鳥の飼い殺しは、生きる為に不可欠という訳でもないから有問題
 なんて言われましてもね。
 ゴカイを繁殖させて釣りの餌にして、食卓に魚料理を載せなくても、狭い区画で不自由させて、餌だけ 十分に与えて家畜を育てて殺し、食卓に肉料理を載せなくても
 んなもんは、豆を食ってりゃ済む話なんです。

 <中略>
 つまり、ゴカイを繁殖させて釣りの餌にして、食卓に魚料理を載せたり、狭い区画で不自由させて餌だけ十分に与えて家畜を育てて殺し、食卓に肉料理を載せるのも、人間の健康の為に、泣いて馬謖を 斬るが如く、他に手段が無くて仕方なくやっているワケではありません。
 タンパク質の摂取を豆に限定されることが我慢できない我儘な人間のために、魚や家畜が尊い命を落しているのです。
 人間がタンパク質の摂取を豆で我慢できるのであれば、ゴカイも家畜も必要ありません。
 ( そもそも、人口爆発に伴って危惧される食糧危機は、タンパク質を畜産で摂ることを前提と しているために生じる問題であって、畜産を止めて農業のみで人を食わせるのであれば、
  人間が農業で生産し得る食料には、まだまだ十分な余裕があると言われています。)
 ゴカイにしろ家畜にしろ、奪わなくても済む他者の命を、我儘な人間が徒に奪うために存在しています。
 ( 何を以て大罪と呼ぶのかは神のみぞ知るところですが ) 種の存続としてではなく、野生の生存競争の輪から外れた人間サマの都合の為に産ませて殺すという行為が大罪であると仮定するなら、
   
生きる為に不可欠という訳でもないのに単に癒しの為に ( 野鳥を ) 飼い殺し
 にする如きは、人が食う為だけの為にこの世に生を受けさせ、大空を飛翔する自由どころか決められた区画から出る事さえ許されず、
<中略>不細工な異性と無理矢理交配させられて、漸く仔を授かったと思いきや、屠殺場に送られて殺される悲惨な家畜生活に比べたら、
 悲 惨 さ が 少 な 過 ぎ て ど う で も 良 い で す。

<中略>

>野生化した生物が外来種として駆除されたり ペットとしての販売や飼育が禁止されたりするという事は遺伝子的には人間を利用する事に失敗したという見方が出来ます。

  いやいやいや。
 法律の世界なんかがそうなんだけど。
 世の理には、「より良い未来」 になるのか、「より悪い未来」 になるのか分からない選択肢と、「現状維持」 の選択肢という二択があった場合に、「現状維持」 という選択肢が選ばれる事が往々にしてある。
 野生化した生物をそのまま野放しにした場合、生態系に変化が訪れる可能性が濃厚であるが、それ が人の世に良い結果となるかどうかは、神ならぬ人に分かろうハズがない。
 だから、善くなる可能性があるとしても、悪くなる可能性を忌避するために、野生化した生物を外来種として駆除したり、ペットとしての販売や飼育を禁止しているに過ぎない。
 実際問題、
   養殖モノが圧倒的多数になり ( 天然モノが ) 駆逐されてしまった
 鮎の現状に関しては、人に何の害も出ておらず、それどころか鮎が美味しい時期になれば、簡単に 食卓へ上げられるようになったことにより、天然鮎の駆逐が問題視されなくなっている。
 結局のトコロ、人は人の都合で環境の変化を評価しているに過ぎず、人間が関与していなかった状態の環境を以て尊しとしているワケではないということです。

<中略>

>犬や猫の様に家族の一員となって生涯を全うするレベルになって初めて人間もペットも幸せと言えるのではないでしょうか。

 以前にも述べた通り、犬も猫もその原種が世に生まれ出た瞬間から人間の伴侶と成り得たワケではありません。
 犬も猫も、誰か 「コイツをペットにしよう」 と挑戦したチャレンジャーが居て、紆余曲折を経て犬や猫 がペットになったのです。
 であるならば、まだペットになっていない野生種を飼い慣らして、ペットにしてみようと挑戦する事は罪ではないでしょう。
 ただし、アライグマにしろ、ソウシチョウにしろ、「コイツは飼えない」 と判断した後の処理が間違って います。
 外来種を在来種の野に放ったのは完全にアウトです。
 人は残虐な生き物であり、その残虐性を以て知らない他種を自分の支配下に置く(=ペットとして飼 う)のですから、ペットとして飼えないと判断された時点でやるべきことは、手元に居るソイツの抹消、つまり殺して衛生的に廃棄、です。
 仮にペットとして飼えたとしても、飽きたから野に捨てるは許されません。
 人の手に囚われた以上、その個体は自然から切り離された個体であり、外来種と云うカタチで生き延びることは、自然に対する人間の過剰な関与だと、( 人類が種の頂点だとする主張に与する私でさえ ) 思います。
 ですから、「飼おうとしたが、飼うには適さないな」 と最終判断された時点で、処分されるべきだったの です。
 処分・・・もりろん、鏖殺しです。
 如何なる紆余曲折であったかは定かでありませんが、犬や猫が紆余曲折を経て人と共存し得るペットに成った以上、いまだペットでない野生種を人間が飼おうとする権利は憚られる物ではないはずです ( それを否定してしまうと、ペットとしての犬や猫の存在、鷹匠が高度な道具として利用している鷹,既に観光資源に成り果てていますが、鵜飼の鵜やカルガモ農法のカルガモ等も否定されることになります )。
 ですから、野生種を飼おうとすること自体に問題はないハズです ( とりあえず、神からの天誅もありませんし )。 チャレンジが許されるとするならば、問題は飼う事を諦めた人間が野に放つ事に因って 生じる在来種の危機。 これさえも、単に弱肉強食の追加ステージだと捉えて無視すことだって許され ないわけではありません ( この件に関しても、とりあえず、神からの天誅はありません )。 ただ、アライグマのように人が飼っている家畜を襲うのは、本末転倒。 人間がアライグマを介して自分で自分の 首を絞めている結果になっています。
 これを避けるためには。
 野生種を飼うと云うチャレンジを行って、尚且つ、飼えなくても人に被害が及ばない様にするためには。
 殺せば良いんです。飼おうとされたアライグマやらソウシチョウやらが何頭(何羽)居たのかは知りませんが、どうせ元居た野生に還る事なんか叶わないんですから、さっさと鏖殺しにして、それ以降を 強い罰則付きで禁輸にすれば良い。
 それだけの話です。
   「飼おうとする」⇒「飼えなくて捨てる」⇒「外来種になる」⇒「野生動物を飼おうとしてはいけない」
 と限定するから、野生動物を飼おうとすることが問題になるのであって、
   「飼おうとする」⇒「飼えなくて殺処分」⇒「のーまんたい」
 です。

<中略>

>本来そこに居るはずの無い外来種により在来種が絶滅させられたらそれは人間が殺したのと同じではないですか。

 いいじゃん、別に。
 人に取って必要な自然とは、人が生きて行くのに都合の良い自然だ。
 台風もハリケーンも洪水も旱魃も、地震すらも、あるとあらゆる自然災害が、もし、人の手にコントロールが委ねられたとしたら、人は躊躇うことなく、人間の生活環境の為に自然災害をコントロールするだろう。 或いは、敵国を攻撃する手段として活用するかも知れない。 いずれにせよ、利己的な手段として活用されるであろうことは、確実である。
 生きるという事は慈善活動ではない。
 ブラックバスのように外来種に在来種が駆逐されて、それまで人が食っていた在来種が食えなくなり、食卓に上げるには糞不味い外来種ばかりになってしまうのは困る。 大変に宜しくない。 ただ、それが宜しくないのは、単純に食卓が貧相になってしまうからであって、在来種が絶滅の危機に瀕するからではない。
 ブラックバスが鯛や鮃のように人間にとって美味しい食材だったら、多くの人は、ブラックバスによる 在来種絶滅の危機を憂いたりはするまい。
   
それは人間が殺したのと同じではないですか
 それの何が悪い。
 人は、食ったら美味しかったから乱獲したとか。 その種が人が味を好む種を横取りして喰っちゃうから先んじて殺して、自分達の食べる量を確保するとか、腹の中の脂を取るためだけに捕獲するとか、 羽毛や毛皮を剥ぎ取る為に乱獲したとか、様々な理由で加減しないで狩り殺し、幾多の種を絶滅させている。
 しかし、そのおかげで飢え死にせず、料理店が繁盛して店主が首を括らずに済み、寒い冬に暖を取ることが出来て、極寒の地でも活動する事が叶って、人は行き延びて経済活動することが出来た。
 もし、人の乱獲によって絶滅した種を、当時の人達が人道的見地から一定数以上の個体数を維持できるように管理していたとしたら、その種は絶滅せずに済んだでしょうが、何人かのヒトは飢えたり、職を失ったり、あるいは寒さに凍えて死んだりしたでしょう。
 もし、タイムマシンで過去へ行って、今現在に絶滅種になってしまった種を狩らない様に妨害した場合、もしかしたら、オイラや貴殿の先祖が死んで、オイラや貴殿がこの世から消えてしまうかも知れません。
 今の我々が在るのは、良くも悪くも過去に生きた人々の行動の結果だ。
 だから、未来の人達が居るのも、良くも悪くも現在に生きている人々の行動の結果である。
 ブラックバスの放流のような、人間の食生活に悪影響が出る様な自然環境への干渉が慎まれるべきであることに異論はない。 だが、それさえも、( 人の営みを最優先項目とする以上 ) 比較的どうでも良い些事だ。
 森林を薙ぎ倒し、浅瀬を埋め立て、河川をコンクリートで覆って、野生動物の棲家を奪い、数え切れない程の野生動物を殺しておいて、今更、たかだか、飼えもしない野生動物を人が飼おうとした挙句に 野に放ってしまうのは、特定外来種を創ってしまうことになるので、
   
それは人間が殺したのと同じではないですか
 とかw
 オイラと同様、貴殿も同じ人間が犯した大罪の上に生かされている身ではないか。
 人間の価値観で断罪する神が存在するなら偽善を纏うが、纏うまいがどの道、地獄行きは避けられまい。
 今更、チマチマとした偽善で点数稼ぎをするのは止めようぜ。

 
>このうえ更に人間のつまらない欲望を満たす為に 生態系を破壊するのを良しとする事は出来ないでしょう。

 なーんとも思わんよ。
 だって、今までやってきたことが大罪過ぎるんだもの。
 そりゃ、森林を薙ぎ倒し、浅瀬を埋め立て、河川をコンクリートで覆って、野生動物の棲家を奪い、数え切れない程の野生動物を殺したのはオイラでもなければ貴殿でもない。 しかし、そうした犠牲の上に我々は生かされている。
 生態系を破壊するのは許せないというなら、どうか中国やアフリカへ行って、「 これ以上の開発をするな 」 と身を挺して訴えて下さいな。 応援しますよw

<中略>
 いや、野鳥が好きで、そういう主張をしている貴殿におかれましては、本当に
   これ以上の破壊工作は最小限に抑えなくてはならないという危機意識
 があるのかも知れませんが、基本的にこういう自然保護等の行為は、金 に な る か ら や っ てい る んです。 下っ端は、ボランティアという名のタダ働きですが、役員報酬も給与も退職金も出ます。  配布物の印刷を頼まれた業者だって材料費だけで請け負うわけではありません。
 さすがに鳥獣保護行政は地球温暖化詐欺のような巨悪ではありませんが、お金になるからやっているんです。 これは高齢者介護施設で働く職員と同じですね。 お年寄りが好きだから、可哀想なお年寄りを助けてあげたいから・・・ではなく、他の高難度な仕事が勤まらない程度のスキルでも食って行けるだけの給与が貰えるからやっているんです。
 変な幻想を持つのは止めましょう。

 
>ある意味 「文明は自然界には存在しない」 事にしようとする行為なのだと思います。 存在しないのだから 「文明が存在しないとしたら、こうなっていたであろう」 という状態に戻そうとしているという事です。

  それは、あくまで、そういう考え方をする人間の意見でしかありません。
 普通の思考をする大多数の人は、
 ・ 可愛いから助ける
 ・ 猛禽類みたいに元気になった後で手に負えなくなるような鳥じゃないから助ける
  ( まぁ、オイラの場合は、傷付いた鷹を助けて何処まで恩返ししてくれるか興味津々ですが )
 ・ 人間と違って、助け方が悪くて死んでも自分に責任が及ばないから助ける
 ・・・ くらいしか考えないと思いますよ。


 >もちろん地球そのものが鳥籠なのだとしたら野鳥とされる鳥たちもペットみたいなものだろうという事にもなるのですが。

 じゃあ、も う ど う で も い い んじゃん。

 人間が天災から逃れ、安寧な日々の中で経済活動に勤しむことが出来るように、と人の手で改変された環境が、多くの野生動物から棲家を奪い、生活環境を奪っていることを善しとするなら、いまさら、 人が原因で特定外来種が襲来して在来種の幾つかが滅びに直面するとしても、それもまた、( 巨視的な観点から見て ) 神の御意志でしょう。

<中略>

>可能な限り理想に近づけようとする努力を全否定してしまったら歯止め無く理想から遠ざかって行く事になります。

 いいじゃん。 理想なんかどうでも。
 今の現代に恐竜が存在しないように、( 人の狩りを含めた ) 生存競争に負けて種が滅びることは太古から連綿と続いてきた避けられない歴史です。

<中略>
 人が滅ぼした種もまた少なくありません。
 ドードーも滅びました。 クアッガも滅びました。 ニホン狼も滅びました。 フォークランド狼も滅びました。 有袋類フクロオオカミも滅びました。 有袋類ウサギワラビーも滅びました。
 ジョンブルク鹿も滅びました。 ジャワ虎も滅びました。
 カリブモンク海豹も滅びました。 野生牛ブルーバックも滅びました。 バッファローも野生種は滅びま した。 ニホン川獺も滅びました。
 ニホン海驢も滅びました。 21世紀になってからも、ピンタゾウ亀が滅んでいます。
 鳥類も沢山の種が人の利己的な経済活動の所為で滅んでいます。 モアという大型の鳥が18世紀までに滅びました。 本来、ペンギンと呼ばれていたオオウミガラスも19世紀の半ばに滅びました。 オガサワラカラス鳩が滅びたのは19世紀の終わり。 カロライナ鸚哥やゴクラク鸚哥,リョコウ鳩,ワライ梟 が滅びたのは20世紀初頭。
 いずれも人間が食ったり、皮を剥いで着る物にしたり、羽を毟って寝具や防寒具にした等の所為で滅 んだ種です。
 これからも滅び続けます。
 そもそも動物は、一定の数を割ってしまうと種を維持することが出来ません。
 釈迦の耳に念仏だと思われますが、絶滅危惧種とはそのままでは絶滅してしまうまで個体数を減らした種であって、例えば、現在絶滅危惧種に指定されているチンパンジーが約2万1000体、ゴリラが約2 万5000体ということから考えても、50羽に満たないトキは別格としても

<中略>
 ツルは、鹿児島県出水市に全世界の約半数が飛来して越冬するという話で、その個体数がナベヅル が約1万2千羽(92%)、マナヅルが1千羽 (他に10羽に満たない希少種が居るらしい)。
<中略>
 単純にこの倍が全世界の個体数だと仮定してナベヅル約2万4千羽、マナヅル2千羽と推計されます。
 絶滅種危惧種から盛り返し得る最低限度の個体数は種によって異なると思われますが、幾らかでも可能性があるのは、チンパンジーやゴリラ程度には個体数があるナベヅル位の物でしょう。
 頑張っている皆様に唾を吐く様な話で申し訳ないんですけれども、トキやアホウドリ、ナベヅル以外の鶴に関しては、やるだけ無駄 ・・・ もっと悪く言ってしまえば、慈善行為に酔っている自慰にしか見えません。
 ずばり言って、絶滅する種は絶滅する運命なんです。
 絶滅しない種は、端から絶滅しません。 それは、たとえ絶滅危惧種になっても同じです。
 実は、遺伝子を調べた結果、かつて人類が絶滅危惧種であったことが判明しています。

<中略>
 別に人類は、自分よりも高位の生命体に助けられて今の人口まで個体数を増やしたのではありません。 自力で他の種との生存競争に打ち勝って数を増やしたのです。
 神ならざる者が、他種の生存に関わろう等とはおこがましいにも程があるとは思いませんか。
 ぶっちゃけ、人の理想とは“人にとって都合の良い理想”でしかありません。
 人の手で絶滅寸前まで個体数を減らさせてしまったという自責の念から、贖罪意識でやっている行為であり、絶滅危惧に人間並みの知能があったら、それこそ 「余計なお世話」 だと言うでしょう。

<中略>
 幸いにして絶滅危惧種にある鳥の知能が低いから何の問題も起こっていませんが、もし、絶滅危惧種の鳥に人並みの知能が有ったら、暴動が起こっていますよ。
<中略>
 だから、貴殿がご自身でお書きになっておられる通り、自分達が文明科学の恩恵にドップリと浸って おきながら、「文明が存在しないとしたら、こうなっていたであろう」 という状態を求めているなんてのは、当の滅ぼされ掛かっている絶滅危惧種にとったら、悪い冗談にしか思えないのではありませんか
( もちろん、悪い冗談だ等と判断できるだけの知能を彼らは持ち合わせていないのですが )。

<中略>
   スマホなどでさえずりを流したり餌付けしたり
 これって悪い事なのか?
    スマホなどでさえずりを流す、なんてのは、古くは縄文時代から使われている狩猟の手段に過ぎません。

<中略>
 「狩りもしないのに、バードコールで呼び寄せてストレスを与えるべきではない」
 という尤もらしい抗弁が立つ事は容易に想像できます。
 しかし、そんなことを言えば、彼らの領域へ侵入して、隠し撮りをするというバード・フォト行為自体が、 そもそも等にとって大きなストレスなのではありませんか。
 他の誰でもない貴殿が彼等に見つからない様に苦労して撮影していると吐露しています。
 バードコールも何も貴殿等が彼らの領域へ侵入してることが、既に彼らにとって
 「 エゲレスのパパラッチじゃあるまいし、堪忍して欲しい 」
 のではないでしょうか。
 もっと耳に痛い事を言わせて頂くなら、そもそも写真雑誌やwebページに野鳥の画像を載せるから、 野鳥に興味を持つ奴が現われて、少ない可処分時間で確実に野鳥と遭遇する為に、スマホなどで囀りを流したり餌付けをしたりするのではありませんか。
 この人造物に塗れた地球にあって、それでも本当に野鳥を
   
「文明が存在しないとしたら、こうなっていたであろう」
 という環境に置きたいのであれば、まず、彼らの生活環境に近付くべきではありません。
 それこそ天体望遠鏡のアイピースに一眼レフのマウントをセットして、彼らの生活圏外から撮るべきです。 そうしないで、彼らの生活圏内に侵入し、手で持てる軽い長玉で撮影可能な距離まで近付いて撮っているなら、それは
   
スマホなどでさえずりを流したり餌付けしたり
 している人達を批難する資格は無いように思われます。
 もちろん、始める前からマナーの勉強を前提にできない一般の人達が安易にバード・ウォッチングを始めてしまうわないように、写真雑誌に野鳥の画像を載せることも、webページに野鳥の写真を載せる ことも慎むべきです。
 それこそが野鳥の生態を守る為に、貴殿達に課せられたマナーだとオイラは思いますね。

<中略>
 オイラが保護したヒヨドリと思しき鳥も、状況を鑑みたらクルマと接触して負傷した可能性が濃厚ですが、他の鳥類や猫のような捕食者と闘って傷付いた可能性だって払拭できません。
 「人造物たるクルマがなかったら」 だの、「人造物たる窓ガラスが存在しないとしたら」 だのそんなことは関係がありません。
 ものすごく単純に
 「 きゃー、可愛いくて小さい鳥が羽を痛めて、地面を這ってオイラから逃げようとしている。
  可愛い過ぎて身悶えしそう (鼻血ブー)。
  たとえ飼われるストレスで死ぬとしても。このままだったら確実に死ぬから保護しちゃえ 」
 という女学生的な屑思考の結果、保護したに過ぎません。
 単純に保護したいから保護した。 可愛いかったから保護した。 タダそれだけです。
 私は人間嫌いを卒業したと自分では思っていますが、傷付いて動けなくなっていたのが、自分みたい な見苦しいオッサンだったら保護なんかしません。
 近くの公衆電話から110番通報してサヨウナラです。

<中略>
 先に書いた内容と重複しちゃうんだけど。
 そもそもバードウォッチングに興味を持つような画像を写真雑誌やwebページに載せておいて、同じページにマナーに関する詳しい解説を載せておかないで、「マナーを守らないお前等は悪だ」 って、そりゃ「お前は何様だよ」 と思っちゃうよ。

<中略>
 先に書いた内容と重複しちゃうんだけど。
 鳥にとっては、自分の生活圏内に入りこまれて、盗み撮りされている時点で迷惑千万ではありませんか。
 結局のトコロ、貴殿等の言う
   
野鳥に対して極力影響を与えない
 ってのは、野鳥を撮るという自分の欲望を満たした上での話であって、野鳥に対して影響を与えない様にする為に、野鳥の生活圏から遠く離れて見守るという事が出来ない屑の戯言に過ぎません。

<中略>
 しかし、スズメなどが人の視線を感じて逃げるほどに、狩られる可能性に対して神経を尖らせていることから鑑みて、( 猛禽類のような強い鳥類は別にして ) 普通の弱い鳥類がバードウオッチングという名の人間の視線に晒されることが恐怖であり、ストレスである事は議論を待たないでしょう。もし、弱い鳥類に人権ならぬ鳥権が認められていて、人と違わない知能を有して彼らが主張するなら、きっとバードウォッチングは鳥権を侵害する違法行為であると認められるに違いありません。
 貴殿等がすべきことは、マナーの悪い一般ピープルを罵って憂さを晴らす事ではなく、「 果たしてマナーさえ守られれば其れで良いのか?」 を考えるべきであり、その先にある 「 自分が鳥であったなら、 生活を隠し撮りされて平気か?」 を考えるべきではないでしょうか。

<中略>
 そもそも野鳥にとって人間という捕食者が生活圏内に居る時点で、強烈なストレスを感じるのではありませんか?
   
「 自分が素っ裸もしくは動物の毛皮をまとって棍棒など持って立っている
 ↑ これって、野鳥から見れば自分を狩りに来た人間以外の何者でもないでしょう。
 多くの野鳥が食べる為だけに限らず、蒲団や防寒着の材料として羽根を毟り取る為に、或いは、人 間が増やしたい個体と食べる餌が重複するという理由で狩られ、殺されて来た野鳥にとって
   
「 自分が素っ裸もしくは動物の毛皮をまとって棍棒など持って立っている
 ような人間なんか全然ウエルカムじゃありません。
 上述の通り、
   
餌付け
 は餌を求めて寄ってくる野鳥を狩るための手段であり、
   
スマホなどでさえずりを流す行為
 は、太古の昔から存在する
   斃せる外敵の声に似せた音を出して、追っ払いに来させる
 とか、
   同種異性の声に似せた音を出して、求愛させに来させる
 という狩りの手段でしかありません。
 そして、愛護が目的だろうが、保護が目的だろうが、残存個体の監視が目的だろうが、野鳥の視界に入って来る人間は、野鳥にとって自分を狩ろうとする捕食者です。
 如何に慈悲の心に満ちていようが、野鳥の目に映る貴殿の姿は捕食者です。
 たとえ、手に弓矢を持っていなくても、たとえ、手に猟銃を持っていなくても、たとえ、手に罠をもってい なくても、たとえ、手に友好の証であるプラカードを持っていてもw、鳥にとって貴殿は狩人と区別が付き ません。つまり、バードウォッチングされる側にとって、バードウォッチングする貴殿達は敵です。捕食者です。そんな奴等が、自分の生活圏内にズカズカと土足で ( いや、靴を脱げば良いって話じゃないんですが ) 入ってくる時点で迷惑千万でしょう。
 そんな連中に

   多少の餌付けはまだしも (餌付けがいいとは言いません)
   スマホなどでさえずりを流す行為は 《中略》 決して好ましい事ではない
 なんて言う資格は無いと思います。
<中略>
 既に突っ込み済みの部分と重複するんですけど、犬や猫が始祖から人のペットでは無かったのと同 様に、ニワトリだって始祖から家畜だっワケではあるまい。
 ( どのような紆余曲折かは杳として知れないが ) ニワトリの始祖が紆余曲折を経て家畜になったと 仮定するなら、同じ様に紆余曲折を経て、今はペットとして確立していない野鳥がペットとして飼われる 可能性は否定できません。

<中略>
 遺伝子は自分の姿が変わらないと困ります。
 これは単に環境変化に対する対応の問題で、未来の環境変化が如何なるものであろうとも対応が可能になる様に、遺伝子は子を親のコピーにはしません。 原始動物が単性生殖であるのに対して、高等生物が両性生殖である最大の理由は『種の多様性』を求めるからです。
 ですから、私のようにアトピー性皮膚炎なんて欠陥品が発生します。
 同じく私が患っている糖尿病にしてもそうです。 現在の日本では欠陥品です。
 アトピー性皮膚炎の患者は、本来ならばもっとアレルゲンの多い環境で生きて行ける存在が、日本のような過度に清潔な環境に置かれた為に、旧来種よりも高出力な免疫反応を持て余してアレルギー性 疾患を発動させています。
 糖尿病は、逆に農耕民族で日々飢えているのがデフォルトであった世代の遺伝子が現代に発現した例と言えるでしょう。 糖尿病患者は、冷夏の度に飢饉を起こしていた昔の日本だったら、他の人が飢 え死にするのを尻目に生き延びることが出来た優良種だった筈です。
 温暖化や寒冷化を含み、環境が変化することは必至であり、生き残りに特化した遺伝子が変異する こともまた必至です。
 さすがにキメラやバイオハザードに至り得る様な遺伝子操作は (人に害を成し得るという観点から) 慎まれるべきですが、人が介する事に因って遺伝子変化の多様性が増えるのであれば、それは 遺伝子にとってウエルカムなハズです。
 遺伝子は、環境の変化を先取りして変化を続け、適さない奴は片端から滅びて行くのですから。

<中略>
 アウストラロピテクスの時点で既に道具を使っていたんですがw
<中略>
人が手にした最初の道具は、争う敵を叩き殺したり、狩りで獲物を弱らせたり殺したりするために使われました。
 道具を手にした時点で人は他の動物と同一視できません。

<中略>
   「 文明が存在しないとしたら、こうなっていたであろう 」
 なんて発想をするくらいなら、さっさと文明のない生活へ身を置いては如何ですか?
 自分は文明の恩恵に肩まで浸かっておきながら、
  文明が関与しない野に置かれた野鳥こそが正しい野鳥の姿だ
 なんて風に言われましてもねぇ。
 そりゃあ、説得力なっしんぐッスよ。

<中略>

>太陽光線という自然の恩恵、温暖な気候という自然の恩恵、 日光を燦々と浴びて育った農作物 ( もちろん機械力という文明の利器は事実上不可欠ではありますが )、 同じく日光を燦々と浴びて育った飼料を食べて育った家畜の肉、海の幸山の幸、 そういった自然の恩恵に肩まで浸かった生活を甘受しておきながら「(人間にとって都合の良い様に、人間以外の種と) 共生している社会を目指すべきでしょう 」 などと言うべきではないと言われても仕方が有りません。

 ( ゚д゚)は?
 オイラは別に
   「 自然が存在しないとしたら、こうなっていたであろう 」
 なんて社会を目指そうとか、そういう思想を元に行動しようなんて主張した事は一度たりとも無いんですがね。
 人がやらかした自然破壊は、人を自然災害から守るためであり、人が農業を効率良く興すためであり、人が快適に暮らすインフラ整備のためです。決して、自然を破壊する事を目的として自然を破壊 したワケではありません。
 自然の恩恵は自然の恩恵として有難く頂戴しつつ、かつ、人間に恩恵を齎さない自然に関しては対費用効果を吟味して、人の徳になると判れば、勝手気ままに破壊して、人類の繁栄をゆるぎないもの にすれば良いのです。
 もはや怖いモノ無しの人類にとって、自然とは征服して利用すべき存在でしかありません ( ← 若干の皮肉を含むw )。
 さんざん、好き放題しておいて、今更

   「 文明が存在しないとしたら、こうなっていたであろう 」
 なんて綺麗事w 空気が凍り付くほど寒いですよ。
<中略>

 >我々は文明の恩恵も自然の恩恵もいいとこ取りをしなければ生きて行けないのです。
 この巨大な鳥籠の中で「文明が存在しつつ」「文明が存在しないとしたら、こうなっていたであろう」 という状態を模索し、自然の良さを可能な限り残しながら文明を維持して行くスタイルが 最も現実的で理に適っていると考えます。

 だから、いいとこ取りじゃなくて、人間が恩恵を最大限に受ける様にしているだけなんだってば。
 もはや文明は『存在する』って次元じゃなくて、極限を目指して突っ走っている状態。
 「文明が存在しないとしたら、こうなっていたであろう」 なんて夢想物語は、頭の中に御花畑がある左巻きの発想でしかありません。 『文明が存在しなかった状況』 をお望みなら、そういう土地へどうぞ。
 オイラは、T細胞の遺伝子を改変して癌細胞に対してのみ強烈な攻撃力を持たせるという治療法で 癌すらも死に至る病ではなくなる未来が待っている文明社会や、ips細胞の利用によって、この醜いアトピー性皮膚炎も、忌まわしい糖尿病も完治可能になるであろう未来が待っている文明社会に肩まで浸 かって暮らす事にしますよ。
    
「文明が存在しないとしたら、こうなっていたであろう」
 ・・・ ははは、しらんがなw
 可愛いから助ける。 可愛いから飼いたい。 可哀想だから助ける。 オイラを含む普通の人はこんなに単純ですよ。 貴殿も見習っては如何かな。


(あまりにも長文の投稿につきかなりの部分を割愛させていただきました)

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